ぶっ壊れてる人たち
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桜が咲いていた。
2013年3月28日。
その桜の下を歩きながら春の息吹をめいっぱい吸い込むと、夢だったこの場所にやって来れたことへの感慨も相まって、胸がいっぱいになった。
その日は、14人の少女にとって新しい人生の扉が開かれた特別な日だった。
乃木坂46を見て、乃木坂46に憧れ、勇気を振り絞ってあの緩やかな坂を登った。大勢の大人がいて、大勢の女の子がいて、いくつものカメラがあって、数え切れないほどの照明が光っていて……まるで別世界だった。自分はここでどう見られているのだろうか。得体の知れない恐ろしさのようなものが込み上げていた。
小さい頃から、ひとりでいることが多かった。他人との距離の詰め方を知らなかったから。私は、私のことをよく知らなかったし、私以外の人のことを意識の俎上に置くという考えがなかったのだと思う。自分自身というものを上手に表現できなかったのも、ひとりだった理由だろう。だけど、両親からの愛を受け取りながら、ようやく私は人並みの人生を送れるようになったように感じる。
習い事が多かった。この広い世界に生まれ落ちて、興味の向く方向が四方八方にあった。両親に頼み込んで、やりたいと思うことはなんでもやらせてもらえた。今思えば、なんて恵まれていたのだろうか、私は。
そういう私だったから、同郷の生駒さんがいる乃木坂46に興味を持ったのも自然なことだった。
当時乃木坂合同会社は、グループの名前の由来にもなった乃木坂のSME乃木坂ビルにあった。会社は移転してしまったけれど、今でも私にとって、いや、乃木坂46のメンバーにとって特別な場所だ。
オーディションの会場になった2階のホール。そのステージの上で名前を呼ばれたあの瞬間を、私は未来永劫忘れることはないだろう。普通の人間だった。大勢の中のひとり。スポットライトを浴びることなどなかった。それが、あの乃木坂46のメンバーのひとりに数えられることになるとは、夢にも思わなかった。想像の中の私は、選考に落ち、やっぱりと呟きながら東北の地に飛んで帰っていた。
その子は真っ直ぐな想いを持っていた。2期生の中では私と彼女だけが地方出身者で、生まれも育ちも違うのに、その共通点が私の心細さを癒してくれた。長い黒髪が綺麗で、よくポニーテールにしていた。よく笑って、よく食べる子だった。彼女のまわりにはいつも笑い声があって、私は、ああ、こういう子がアイドルになるんだなとぼんやり思ったのを覚えている。
地方出身者の私たちは、レッスンのたびにホテルの同じ部屋で寝泊まりした。同じダンスを踊って、同じ歌を歌って、同じご飯を食べて、同じ時間に起きて……姉妹とは違う、心を分けた2人だ。だからこそ、思い通りにいかない日々が辛くても、その苦しみは半分になった。
私たちは2人とも地元から遠く離れてこの場所にやってきた。彼女は人生をやり直すかのように学校も辞めていた。私たちはお互いに孤独で、でもこの場所にいれば心を晒け出せる仲間たちがいて、その絶妙な心の均衡を多感なあの時期の私たちが抱えていたと思うと、少し恐ろしい。そういう心のバランスは、ともすれば二度と元に戻れないほどバラバラになってしまうものだ。
乃木坂46には、『乃木坂って、どこ?』という冠番組があった。CDデビュー前から始まった番組で、私もよく観ていた。あの日、番組収録を見学していた私たちにとって、大きな転機が訪れた。
最後に彼女の名前が呼ばれた時、時間が止まった。7枚目のシングルのセンターは彼女だった。収録が終わって泣き崩れている彼女を抱きしめた時、その華奢な身体が震えていることを知って、私も涙が出た。決して身体が強いわけではない彼女を、どうにかして支えたいと思った。
あの頃の乃木坂46は世間からの注目も浴び始めるようになって、グループとしての過渡期にあった。そこにセンターとして選ばれることを想像すると、私だったら耐えられなかっただろう。
当時の2期生と1期生の間、2期生と選抜メンバーの間には、計り知れない距離があった。私たちは正規メンバーですらなく、彼女がひとりで闘っているのを遥か遠くから見つめることしかできなかった。ただでさえ孤独だった彼女が、名前を呼ばれた瞬間を境に一変した世界で平静を保つことなどできなかっただろう。そんな彼女を支えるためには、私が認められるようになって同じ場所に立たなければ、そう思った。苦しみを共有していたからこそ、彼女が今どれだけ不安に支配されているかわかった。
「待っててね」、そう言うと、彼女は微笑んでくれた。
2015年2月22日、身体が芯から凍りつきそうだったあの日、私は研究生から正規メンバーに。やっと彼女を支えるための舞台へ上がれたんだという思いと、1年以上も待たせてしまった申し訳なさが募った。彼女は自分のことのように喜んでくれて、私は謝る言葉を飲み込んだ。せっかくの彼女のお祝いの言葉をふいにしてしまいたくなかったから。
『命は美しい』のシングル期間、彼女はずっと苦しんでいた。私は愕然とした。選抜メンバーであることの苦悩。センターを経験したことによる現状への無力感。それは私が知らない感情だった。そこで苦しむ彼女は私より遥かに先の方にいて、その背中から表情を推し測ることしかできなかった。それなのに、彼女は私たちに笑顔を届けてくれていた。いつだって私たちのことを考えてくれた。意地悪な想像をすれば、それは私たちに対する疚しい思いを拭おうとしていたからなのかも知れない。いきなりセンターに選ばれ、2期生として一緒の活動も少なかったから。2期生のことを思っているからこそ、彼女にとっては心苦しかったと思う。彼女に疚しい思いを抱えさせていたのは私たちだ。私たちの力が及ばないばかりに、彼女には辛い思いをさせてしまった。
桜が咲いていた。
彼女の長くて綺麗だった髪が短くなった。見惚れるくらい綺麗な髪だったのに。そこには彼女なりの覚悟があった。だけど、私は彼女に髪を切らせてしまったのかも知れないと思ってしまった。「ショートも似合うね」と言えなかった。私にそんなことを言う資格はあっただろうか。
それからすぐに選抜発表があった。彼女の名前は読み上げられなかった。憔悴する彼女を前に、私は何もできずにそばにいることしかできなかった。
不思議な気持ちだった。彼女の背中を見ながらパフォーマンスをする自分が。夢を見ているみたいだった。まるで彼女が私を迎えにきてくれたかのような。2年前、ホテルの部屋で練習用のダンスを私と一緒に踊っていた彼女の背中は、今ではとてつもなく大きかった。
彼女と一緒に活動できたのは嬉しかった。でも、彼女の瞳が遥か先に向けられているのを知って、私は口を噤んだ。『今、話したい誰かがいる』の頃、2期生は全員、選抜から外れてしまっていた。不甲斐なさ、自分への憤り……憧れてやってきたこの場所で私は胸を張れているだろうか。彼女はそうやっていつも私たちの指標になってくれる。2期生にとっての一番星だ。
ずいぶん長い時が経った。振り返れば一瞬だったが、季節は何度も移り変わり、真夏に。14歳で乃木坂46のオーディションに合格した私が、10代最後の夏を迎えていた。
『ジコチューで行こう!』の選抜メンバーとして名前を呼ばれたのは、最終オーディションで名前を呼ばれてから約5年半後のことだった。長い時間待たせてしまった彼女に申し訳なかったけれど、お互いに抱きしめ合った瞬間、彼女のそばにいられるのが嬉しくて、明日を想像するのが楽しくて、笑わずにはいられなかった。
私にとっての5年半は、夢と現実の折り合いをつける期間でもあったように思う。この場所は夢に溢れている。それにメンバーのみんな、マネージャーのみなさん、乃木坂46を支えてくださるスタッフのみなさん、誰もが温かく、私たちは何度も救われてきた。みんながこの場所を愛していて、大切に守りたいと願っている。そして、だからこそ常に前に向かって歩み続けなければならない。そのために必要なこともあって、必要なことをするためにどこかで妥協しなければならない部分もある。自分が端折られる部分でいなければならないこともある。そういう現実にぶち当たるたびに、次こそはと思い続けてきたのだ、2期生は特に。
そんな2期生を彼女はずっと思い続けてくれた。そのおかげで私たちはいつまでもひとつでいられたし、闘い続けることができた。だから、彼女がこの場所を去ろうとしていると知った時に、目の前が真っ暗になってしまったように感じた。
白石さんが卒業を控えていたある日、選抜発表があった。同時に、26枚目のシングル期間で彼女が卒業することも告げられた。そのことは前もって彼女から伝えられていたものの、私は最後に彼女のそばにいてあげられず、自分の無力さに落胆した。
『僕は僕を好きになる』、皮肉だと思った。こんな私を、私は好きになれそうもなかった。何度も謝った。彼女はそのたびに、私を抱きしめて首を振った。許してもらおうとしたのではない。自分を責めずにいられなかった。全く違う場所で生まれて、全く違う環境で育って、でも同じものに憧れて、同じ場所にやってきて、同じ苦しみを抱くようになった。そんな無二の人の門出をそばで見守れないなんて。
後悔ばかりだった。名前を呼ばれて、光に満ちたスタジオのセットに向かう彼女の背中を見送ってから。ずっと追いかけていた。ずっと見守っていた。ずっと支えたかった。ずっと同じ景色を見ていたかった。
「絢音がいたから頑張れたんだよ」
彼女の優しい言葉が、私には辛かった。その言葉こそ、私から彼女に贈ってあげたかったものだ。
小さい頃から、ひとりでいることが多かった。そんな私がこんなにも自分でいることを肯定してくれる彼女に出会ったのは、運命だったのだろうか。彼女がいてくれたから、私はどんな壁も乗り越えてきた。彼女がいてくれたから、私は私というものを知ることができた。彼女のそばにいたい自分が負けず嫌いだと気づいたし、歌もダンスもお芝居もただ好きなだけでなく突き詰めたいと思えた。
彼女の最後の日が近づいてくる。時間は止まってはくれない。だからこそ、一瞬一瞬を無駄にしたくなかった。泣いて彼女の背中が見えなくなるくらいなら、涙を拭って前を見る。彼女が旅立つ花道を色鮮やかに飾るため、何度も振りを確認した。
彼女は紛れもないアイドルだ。非の打ち所がないほどに。自分に厳しく、私たちには優しい。優しさとは私たちを抱きしめるだけではない。より良い未来を引き寄せるための糸口を、彼女はいつでも共に探し出そうとしてくれた。共に泣いて、笑って、時にはぶつかり合うこともあった。お互いの存在を確認し合うように。
最後のリハーサルが終わって、少しだけ外を散歩した。白い雲で覆われた空、風は強くて肌寒い。それでも隣には彼女がいて、朗らかな笑い声をあげている。
オーディションの時、彼女はひとりで椅子に座っていた。その姿がなんだか切なくて、どこか自分自身を重ねた。偶然を装って隣に腰掛けた。振り向いた彼女の大きな瞳。最初に交わした言葉はなんだったっけ?
彼女が駆け出す。
「もうこんなに咲いてるんだ」
両手を広げてくるくると回りながら。
私の親友。
堀未央奈。
私も走り出す。その背中をめがけて。
2021年3月28日。
桜が咲いている。
written by antedeluvian
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